イッキ飲みの急性アルコール中毒と、依存症では、全く違った症状が現われるように、農薬の場合も、急性毒性とは違うタイプの毒性がある。
これが慢性毒性だ。
一回の摂取では、中毒を起こさないような少量の農薬であっても、毎日長期間にわたって継続的に摂取した場合に毒性症状をあらわすことを言う。
食品中の残留農薬が問題とされるのは、この慢性毒性による被害がおそれられるからだ。
慢性毒性試験の結果は、残留農薬の安全性を判断する際に、大いに参考にされる。
イッキ飲みの急性アルコール中毒と、依存症では、全く違った症状が現われるように、農薬の場合も、急性毒性とは違うタイプの毒性がある。
これが慢性毒性だ。
一回の摂取では、中毒を起こさないような少量の農薬であっても、毎日長期間にわたって継続的に摂取した場合に毒性症状をあらわすことを言う。
食品中の残留農薬が問題とされるのは、この慢性毒性による被害がおそれられるからだ。
慢性毒性試験の結果は、残留農薬の安全性を判断する際に、大いに参考にされる。
事故はなるべくなら起きないでほしいと思っていても、時によって不注意や何かの無理、よほど不幸な偶然が重った場合に発生する。
関係者は事故をなくす努力はしていますが、これを100%なくすのは難しいことです。
それは、交通事故や飛行機事故を考えればわかるでしょう。
一言つけ加えれば、ほとんどの自動車事故は、ドライバーの責任は問われても、メーカーの責任が問われたり、自動車の存在そのものがウンヌンされることはありません。
農薬の場合だけ、何故大騒ぎされるのか不思議です。
自殺や他殺は、作為があってやっていることですから、農薬の善し悪しの問題とは別次元の話でしょう。
作為のある人にとっては何でもいいんですから。
光合成は、虫にも人間にも無関係である。
虫は脱皮しながら成長していくが、人間も草もそんなことはしない。
虫には脱皮を阻害する物質を与えてやれば、脱皮できなくて死ぬ。
草や虫の、どういう生理作用を攻撃して殺すのか。
その攻撃の的になるところを作用点という。
この、作用点がどこか、ということも、殺虫剤や除草剤が、人間にも有害かどうかを判断する材料の一つとなる。
ただし、植物の光合成を阻害するものが、人間に全く安全だという保証もない。
摂取量が多くなれば、別な生理作用で人間に害を与える可能性があるのだから。
農薬問題が議論される時に、よく出されるのが、安全かキケンかという話だ。
福島市東部の岡山地区は、県内でも有数の野菜地帯である。
片平さんは、ホウレン草30ha、きゅうり17haなど野菜を56haと水稲40haの専業農家だ。
農業は片平さんで三代目。
30歳になる息子さんがいるが、「後を継ぐ気も継がせる気も」なく、農作業は繁忙期のごく一時期を除いて奥さんと二人。
「規模拡大して効率化したいとは思っているが、労働力には限界がある。
いつまでもオッカアと二人じゃできねエから、いずれいちご作りやってる人にでも貸すか」と考えている。
きゅうりは、約3分の1がパイプハウスでの栽培だが、これは、労働力を分散させるため。
「日中に収穫して、夜は箱詰めをやる。夜明けの少し前に仮眠して、明け方には出荷する。眠るヒマなんかほとんどなくなるんだ」
こういうスタイルでやっているから、農薬使用は不可欠だ。
「水田と畑の除草剤があるから(そちらの手間が省けて)きゅうりができる。
パイプハウスにしたのも、播種時期で1ヵ月半、収穫時期で1ヵ月、ピークの時期がズレる。オッカアと二人で何とかしていく工夫だ」
片平さんは、農業をやる上で農薬は「絶対に必要だ」という。
だから、「使わにゃならん時はなんぼ高くても使う」それが確実に省力化をもたらし、安定した収穫を保証することを知っているからだ。
もっとも、場合によっては使わないこともある。
「冬作のホウレン草には使ったことがねエ」そうだ。
冬には虫も病気も出ないから答えは明確だ。
「使わねエですむなら、誰も使わねエベ」これも明解。
「曲がらないきゅうりを作るために、農薬を使っているという話を聞きますが」と聞いてみたら、ひと呼吸置いて笑われた。
「曲った方がいいっちゅうなら、いぐらでも売ってやる。(曲がるのは)肥培管理をうまくやらないからだ。水分をまちがったのと窒素が不足しているせいだ。ちゃんと手かければ、きゅうりは曲がらねエ。まあふつうはA級(まっすぐ)とB級(曲がっている)では味はそんなに変わんねエけど」
いずれにせよ、十分に手をかければ、手をかけただけ、きゅうりはたくさん、いいものがとれるそうだ。
もうひとつ、片平さんが強調したことがある。
農薬のために、カエルやどじょうがいなくなったという話についてだ。
「(農薬が)全然関係ねエことはないかもしれないけど、洗剤やら何やら、生活排水の方がよっぽど悪さをしているはずだ。農薬使わねば、虫喰いだらけで売れる物は出せねエ」
片平さんもまた、後継者難にあえぐ最近の農業の実情を強く危惧している。
「ハウスやら、機械やらの資材費に金かけて、(投資分を回収していないめ)やめたくてもやめらんねエ人も多いんだ」
野沢菜のルーツである小瀬菜(こぜな)なんかがそうだし、コメでも、赤米系のクロゴメのような原始的な品種も同様です。
ただ、問題なのは、それで商品作物になるかどうかです。
最近のグルメ志向で、変わったものや昔のものが、一部の人には珍重されていますが、あくまでも稀小価値としての人気でしかないんです」
渋谷さんが熱心なのは、作物の生理、生態だけではない。
もちろん、農薬についてもいろいろと研究している。
たとえば除草剤については、「散布回数の多いところではやや収量が劣る傾向がある」という印象をもっているという。
ちなみに、板野さんの栽培技術では、経済樹齢は十五年ぐらいで、幼木の三年間は、深耕と堆肥入れで徹底した土づくりをして樹を育てるのだそうだ。
俗に、桃栗3年柿8年という通りだ。
4年目からは、果実を成らせて低木仕立てにし、主枝を安定させ、一定の高さを保つために『ツリ棚方式』を導入して、作業の省力化を図ってもいる。
もう少し細かい点に触れると、植栽密度は7m×7mで、10反当たり20本の樹が植えられているから、板野さんは、清水白桃を200本栽培しているわけだ。
そのほかにも、栽培上の工夫は多い。
軍事面でライバルではなくなったソ連の後には、経済で米国を凌駕する勢いにあるライバル日本を本気で叩く。
東西冷戦が過去の話となった以上、日本を遠慮なく叩けるチャンスが到来した。
そう考えていた。
ここで日本を弱体化できれば、米国は経済面でも世界で唯一の超大国になることができる。
こうして日本叩きが始まった。
これまで日本が「これだけは譲歩できない」と主張してきた聖域を、米国は容赦なく解体させ始めた。
日本側が聖域を守ろうと貝のように閉じこもろうと、グローバル化を利用すれば、解体できることを米国は熟知していた。
「鉄のカーテン」ですら崩壊させたのだから。
さて、結果はどうなったか。
一人当たりのコメ消費量は六三・六キロとなった。
この数字は、減少傾向の趨勢値をも下回り、なんと2004年度の趨勢値に達してしまっ
た。
農水省が何の対策も講じないで、減少するに任せた場合に三年後に達するであろうと想定した数字に早くも低下してしまった。
まさに事態は深刻である。
過去、コメ消費は不況になれば、減少傾向に歯止めがかかった。
パン、麺に比べてコメは割安で、不況により家計消費に節約の動きが出るとご飯食が増えて、パンや魚、肉などの消費が減少していた。
ところが今回の長期不況の中で、これまでの動きとは異なる現象が出てきた。
こうした認識を基に、農水省も牛乳の生産増加策、牛一頭当たりの生産量、牛乳の品質向上、衛生管理の向上などを政策目標に掲げている。
具体的には、2004年度の目標として、生産量九三三万トン、牛一頭当たりの乳量七九六〇キロ、乳蛋白質率三・三%、HACCP承認飲用牛乳工場の割合七割以上(二〇二〇年度)といった目標を掲げ、2001年の目標を、生産八八四万トン、一頭当たり七五八六キロ、乳蛋白質率三・二三%、HACCP工場比率六二・六%としていた。
さて、結果はどうだったか。
生産量は八二八万トン、一頭当たり七四七〇キロ、率三・二〇%、HACCP承認工場比率六三%であった。
いずれも2001年度の目標を下回り、厳しい結果である。
大豆も麦と同様、輸入に依存した農産物である。
自給率は麦よりも、さらに低く五%程度である。
そして、大豆が国産農産物として重要度を増しているのは、これまた麦と同様にコメの減反作物としてである。
ただし、こちらは麦と異なり、国産大豆は豆腐用や納豆用として輸入大豆よりも優れた品質を誇っており、需要拡大の余地がある。
また海外産の大豆では遺伝子組替大豆騒ぎが発生した関係で、これまた国産大豆の需要増という動きがある。
もっとも価格は割高である。
そこで農水省は大豆の生産対策として、五年後の2004年度に二〇・三万トン、標を設定し、その実現を目指している。
立派な家屋は農業所得ではなく、兼業所得、ないしは値上がりした農地の売却で得た所得がもたらした場合がほとんどだ。
だから、農政はこうした農家の資産形成に大きく貢献した訳でなく、農村経済の繁栄をもって農政が成功したと判断するのは誤りだとの主張も成り立つ。
やはり、戦後の農政は成功ではなく、失敗だったとの見方もあるほどだ。
しかし、日本の消費者が世界にも例のないほどの豊かな食生活を享受するようになったのは、何故か。
輸出産業がもたらした多額の貿易黒字により海外の食料品をふんだんに輸入しているからだろうか。
それだけではないはずだ。
戦後の農政は農地解放でスタートした。
それは戦前の農村社会の基盤でもあった大地主制度を崩壊させ、小作農家を解放し農村社会を近代化させた。
それが戦後の教育レベルを引き上げ、都市に農村からの若い労働力を大量に供給したばかりか、豊かな農村社会を形成し、高度成長の中で内需拡大の推進役となった。
立派な家屋と農作業の労苦を軽減する数々の農業機械、それだけでなく都会の家庭をも凌ぐ電化製品の数々、そして一家に数台は珍しくない乗用車。
いずれも戦前には夢見ることすらなかった豊かな農村経済の到来である。
それらの繁栄は農業所得がもたらしたものではない、との指摘は正しい。
報復措置の内容としては,貿易協定上の譲許の停止や,関税その他の輸入制限,サービス分野での制限等が想定されている。
これらを全貿易相手国あるいは関係当事国だけを相手にとることが可能である。
以上の301条手続は,ガット上重大な問題を含んでいる。
第1は,ガットの紛争処理手続の完了を待たずに,通商代表が一方的に不公正か否かの判定を行ないうることである。
第2点は,報復措置をガット締約国団の承認を得ずに実施しうることである。
この結果,301条に従って執られる報復措置の内容次第では,ガット違反となる可能性が大いにある。
たとえば,ガットで譲許した関税を,代償もなく一方的に引き上げれぽガット違反である。
(i)紛争処理手続全体に要する期間,つまり,2国間での協議要請からパネル報告採択までの期間を15ヵ月以内とする。
(ii)紛争処理手続の各段階における時間的枠組みを次のように設定する。
パネルの構成が決まり付託事項が合意されてからパネル報告が紛争当事国に示されるまでの期間は,原則として6ヵ月を超えてはならない。
緊急のケースの場合には,この期間を3ヵ月にするよう努力する。
また,パネリストについてパネル設置から20日を経過しても決定できないときには,ガット事務局長がこれを10日以内に決定する。
パネルの設置について2回以内の理事会で行なうこととする(パネルの自動設置)。
パネリストの人選を円滑に行なうためにロスター(候補者名簿)をさらに拡充する。
このように手続の迅速化を中心にかなりの改善が図られたが,いっそうの改善・強化のためにはまだいくつかの難問が残った。
仲裁制度の導入それ自体についてはとくに反対する国はなく,「中間レビュー」の合意にも斡旋・調停の活用と並んで仲裁(arbitration)も言及された。
しかし,議論を経て,「紛争当事国双方によって明確に定義される問題点に関わるある種の紛争」についてこの方法が用いられ,かつ当事国双方がこの方法を用いることに合意するとともに「その後の手続き」(the proce-dures to be followed)についても両者が合意することと規定されており,仲裁裁定に拘束力をもたせるかどうかについても当事国間の合意事項とする形で意見の対立を回避している。
1988年12月にモントリオールで開催された「中間レビュー」会合におけるその他の主要な合意点は以下のとおりである。
これらの点は実際には,この会合ではまとまらず紛糾していた4つの交渉グループ(繊維,農業,セーフガード,知的所有権)が翌1989年4月に合意にいたったことを受けて正式に決定され,すでに実施に移されている。
これは通常パネル(紛争処理のための小委員会)の設置要求という形をとる。
かつては「作業部会」(working party)という形式によることもあったが,最近では3人ないしは5人の委員からなるパネルによっている。
ガットが設立されてまもない頃は,紛争案件は年2回の割で開催されていた締約国団会議(いわゆる総会)によって審議されていた。
それが後には締約国団会議の問に開催される「会期内委員会」で取り扱われるようになり,さらにその後は参加を希望する締約国の代表から成る作業部会が紛争処理に当たった。
本来は作業部会が主流だったガットの紛争処理でパネル形式が中心となるにいたったのは初代のガット事務局長E・ウィンダム・ホワイトによるところが大きいといわれている。
1 紛争処理パネルとその役割
2つ以上の締約国の間でなんらかの通商上の争点が生じた場合,自らの利益が損なわれたと判断した締約国は,ガット第23条1項に基づき協議を提案することができる。
その際第22条に基づく協議を経る必要はないが,問題が尖鋭化する前の段階では22条協議を行なうことも少なくない。
関連締約国が23条1項協議に入ったことは限定配布の事務局文書(Limited distributionの”L”をとってL/と表示され,通常「L文書」と呼ぼれる)を通じて全締約国に通報される(なお,現在では紛争処理パネルの報告書はDSI一で表示されるようになった)。
さらに23条1項協議が不調に終わった際,あるいは提訴国が解決を急ぎたい場合で協議の継続に意味を認めなくなった際に,提訴国はやはりL文書で23条2項に基づき締約国団に問題を付託する旨通報する。
世界の大批判を浴びて,いわゆる2年間の時限立法である同条は2年間で姿を消した後,更新されることはなかった。
いま日本としてとるべき道は,米国をして正しい貿易政策に戻らせるよう,政府と企業がともに堂hとした正道の対応を示すことではあるまいか。
独禁法の域外適用については,その例外に逃げこむのではなく,同適用の国際法上の問題点を突いて,このような政策そのものをひっこめさせることをめざすべきではないか。
この問題に悩んでいるのは日本だけではないのだから,国際的な対応が可能なはずである。
ダソピング調査の件についても同様である。
同調査を逃れるために,種h工夫をこらしても,結局はつかまってしまうか,あるいはつねに威嚇のもとで生きるしかなく,同調査の乱用は跡を絶つまい。
ガット調査団が接触したかぎり,米政府関係者の間に,同規制について日本側に感謝しているとの姿勢は微塵もみられなかった。
逆に,米国公取委の報告等によって,同規制が米国内での日本車価格を上昇させ,日本企業にタナボタの巨大利潤を得させているとの見方が一般的であった。
こうしたことから,事務局は,米国の管理貿易への傾斜は,相当程度日本の協力によって可能となっているとみる。
したがって,管理貿易化についての対米批判は,同時に日本への批判でもあることを忘れてはならない。
米国のすぼらしいところは,過ちを正す自浄機能が,政府内にも,議会にも正常に作動していることである。
その最近の一例は,「スーパー301条」である。
ガットのダソピング・コードやガット自体の紛争処理手続に訴えて,正々堂々と米国やECのダンピング調査の運用上の問題点を指摘し,事の是非を問うべきである。
すでに,北欧諸国や,香港,メキシコなどがこのような訴えをガットでおこしている。
日本が加われば,大きな勢力となることは間違いがない。
米国やECの貿易政策を正しい方向に向かわせ,ガット体制を再強化するために,いま,多数のガット加盟国が大きな期待を日本に寄せてきている。
少しでもこうした期待に応えられるような経済大国となることをめざすべきであると考える。
またミスタードーナツ店の全店黒字化も出店を加速させそうだ。
FCの場合、加盟店契約時に店舗運営ノウハウの指導を徹底するため、開店当初は経営もスムーズだ。
しかし年月がたつとともにマンネリ化して赤字経営に陥りやすい。
ミスタードーナツ店も、九四年秋口にはFC約一〇〇店が赤字経営に陥っていた。
そこでFCビジネスが二五周年を迎えるのを機に、「全店黒字化を実現しよう」を合言葉に、赤字経営だった店舗に社員を三カ月から半年にわたって送り込み、経営支援に取り組んだ。
五年後をメドにフード事業部門の売上高を現在の三倍に拡大する目標を打ち出しており、実現には新業態店の開発が避けて通れないと判断した。
プロジェクトチームが考案した五〇型店舗はユニット建材を組み合わせる”プレハブ化”方式の店舗。
工期はそれまでの四〇日から三〇日に短縮。
什器、備品も円高を活用して輸入品を多く取り入れた。
店の雰囲気もがらりと変わった。
明るく開放感のある「カリフォルニアタイプ」の店舗で、デザインは工業デザインで世界的に有名な米フィッチ社(ワシントン)が担当した。
五〇型の標準店舗の初期投資額は、独立店が五〇〇〇万円、テナント店が三七五〇万円と、80型の半分で済む。
上田取締役は「店舗規模や取扱商品は従来店舗と同じなので売上高は変わらず、商圏人口が五万-一〇万人でも採算に合いやすい。
その分出店ペースが早まる」と自信を見せる。
地下にある佐藤水産の売り場ではコ万尾に一尾しかとれない生後一-二年程度の味のよい”幻のサケ”Lをはじめ、北海道でしか手に入らない産品を数多く取り扱っている。
佐藤水産は既に札幌の五番舘西武と取引があり、そこでの成功に目を付け、池袋店に引っ張ってきた。
新潟県津南町の農家と契約し有機野菜の取引を始めている伊勢丹も、新潟伊勢丹で既に取引があったのが契約のきっかけ。
現在数パーセントに過ぎない産直品の比率を五年後をメドに一割まで高める計画だ。
このため、担当者が頻繁に産地に出向くだけでなく、新潟伊勢丹に出向している五人のバイヤーとの情報交換も一段と密にする。
さらには伊勢丹などが中心になって組織する共同仕入れ組織、全日本デパートメントストアーズ開発機構の加盟百貨店から各地の産品の情報を仕入れ、取引先を開拓していくことも検討中だ。
百貨店もスーパーとはひと味違った生販同盟に動き始めたようだ。
「池袋店の生鮮食品全体に占める産直品の比率を三割まで高める」
西武百貨店の林達也食品部長はこう宣言する。
同店は都内の百貨店では、二番目に食料品の売り上げが多い。
十五年ほど前に産直品の取り扱いを開始、現在は年間約一五億円、生鮮食品全体の一割強を占め、他店に比べれば比率は高い方だが、あまり伸びていない。
同店はイトーヨーカ堂やダイエーなど競合する大型店が多く、最近は価格競争の激化で顧客の流出も目立つ。
「スーパーと対抗するには、品ぞろえで対抗せざるを得ない」(林部長)。
その切り札の一つとして産直強化を打ち出した。
その突破口とも位置付けられるのが、一年前に同店のテナントに入った佐藤水産(札幌市)との取り組みだ。
農水省は九六年秋から、地場食材のブランド化の支援に乗り出した。
地方自治体に音頭を取ってもらい、地元の外食店経営者や、生産者、学識経験者らで構成する「企画検討委員会」を全国各地に順次設立。
食材の生産・利用状況の実態調査を実施するほか、新メニュー開発や、これまでにない調理法を考える試み。
外食産業と生産者の橋渡しをし、取引を拡大するのが狙いだ。
北海道、青森、岩手、山形、群馬、京都、和歌山、熊本、鹿児島の九道府県に対し検討会運営の補助金を出し、五力年計画で全国に広げる。
「大手チェーンによる大都市圏中・、9の店舗展開だけでは、バランスのとれた外食産業の発展は望めない。
地方の中小・零細飲食店が生き残るためには、新しい地元料理を生み出すことが必要だ」と農水省は強調する。
財団法人食品産業センター(東京・目黒)も、九六年9月に札幌市で「ふるさと食品キャラバン」を開き、全国ルートで販売できるような地場食材を発掘した。
北海道の農水産物の生産・加工業者が食材を会場に持ち込み、百貨店、スーパー、食品卸売業の各販売担当者、デザイナーらが試食、味、包装デザイン、商品のブランド名などをアドバイスした。
ファミリーレストランとの連携で、ブランド化に成功しつつあるケースはほかにもある。
鹿児島県産のキビナゴを使った「きびなごサラダ」は、ジョナサンの定番メニューだ。
キビナゴは九州で主に漁獲される小魚。
鹿児島県では刺し身として珍重されてきたが、取れ過ぎて余った分は、養殖魚のエサにされていた。
ファミリーレストランは最大の消費地、首都圏を中心に店舗展開するため、地場食材にとって知名度アップの最高の舞台ともなる。
鹿児島県の水産業関係者は「年間約九〇トンを使用してくれるだけでもありがたいのに、無料のPRもしてもらっているようなもの」とほくほく顔だ。
「地場食材の生産者側が加工、商品化してスーパーなどに持ち込む場合、売れなかった場合のリスクが大きい。
原料さえ持ち込めば、加工、調理までやってくれる外食チェーンは、この面でも産地にとって有望な販路」。
地域開発コンサルティング会社の東京工ーエムアール(東京.中央)の荒川浩社長はこうも話す。
九六年11月八日、本社工場の向かいに建設した「本社クリエイティブセンター」の落成式を開いた。
ここには管理部門と研究者約四〇人を擁する開発センターが入居した。
「クリエイティブセンター」の命名には「社員全員が開発要員だ」とする有吉氏の情熱が表れている。
九六年秋からは新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の補助対象事業として、九州大学、福岡県工業技術センター、太陽製粉(福岡市)と共同で、バイオテクノロジーによる成人病予防食品の開発に着手した。
念頭に置いているのは糖尿病と高血圧。
三年以内に予防に有効な食品を開発する方針だ。
食材には第一にウクライナ産のそば粉を考えている。
成人病予防に効果があるといわれるビタミンPが国産品に比べ七〇180倍も含まれているからだ。
めん類に付属しているスープ、しゃぶしゃぶのたれ、フグ刺し用ポン酢など、各種調味料を主体に、一番食品(福岡県飯塚市、有吉正臣社長)の商品数は約七五〇〇種類に上る。
漁師が処分に困っていたカツオの頭や内臓から抽出したイノシン酸の開発で創業したが、現在は商品のほとんどが依頼された特注品だ。
国内大手のスープメーカーとして成長に弾みが付いている。
創業者の一人である有吉社長の関心は五九年の創業当時も今も変わらない。
おいしいと感じるための要素は何なのか、食と健康の深い結び付きを科学的に解明したい。
自社を「味づくりの黒子」と呼ぶ有吉社長は新しい食文化を生み出すための研究開発を事業の中心に据える。
日本などと違い「健康」の意識は全くなく、純粋に「リキュール」として受け止められている。
梅の故郷、中国には研究所を建設する予定で、現地では梅の栽培から梅酒製造まで手掛ける計画もある。
「梅が育つまで五-六年かかることを考えると、十年は戦う覚悟」(金銅社長)でいる。
肝心なのは梅の生産だ。
金銅社長は、梅農家、蝶矢、消費者を結んで「水道」にたとえる。
原料の梅の実がなければ「蛇口」をひねっても商品の梅酒を供給できない。
「梅農家には後継者を育て、梅の実を供給し続けてもらいたい。
その代わり、うちも買い取りの価格は一銭も引かない」。
梅を愛する確固たる信念が「チョーヤの梅酒」を生み育ててきた。
インターネットは距離のハンディを解消し、これまで地方に埋もれていた食品を全国ブランドにする可能性さえ秘めている。
北海道の六花亭製菓(帯広市)はこのほどネット上に「仮想店舗」を開設、道外の居住者へ洋菓子の販売を拡大し始めた。
神奈川県の泉橋酒造(海老名市)は吟醸酒「きみほうせん」のPRも兼ねて清酒関係の情報提供を始めた。
地場産品を全国に売り込もうとする試みは各地に広がっている。
日本のネット利用者は2000年には一五〇〇万人に達するとの説もある。
「今からノウハウを蓄えておかないと市場の発達についていけない」(海外のインターネット事情に詳しい三石玲子M&M研究所代表)。
時代の先端を行くメディアをいかにマーケティングに生かすか。
消費者とメーカーをじかに結ぶ新たな販促・情報収集手段として、食品メーカーはインターネットの利用価値を見極めようとしている。