日米経済協議 その3(残留農薬検査)

農業問題については日本は胸を張ってノーと言えない側面がある。

日本は農業で強い輸入制限措置をとっている。

しかも、一九九四年末の部分的な残留農薬検査済み米輸入の自由化に際して、関税化というような市場メカニズムにのっとった方法をのむというよりは、輸入数量割当て(ミニマムアクセス)の手段で輸入を少しだけ増やすという方向で自由化をしてしまった。

これは数量割当てという、政府が決め、政府が強制的にそれをやらせるという手段を使うことを約束したわけで、製造業あるいはサービス業でそういうことはできないと拒否していることと真向から矛盾する。

こういうこともあって、現在農業について日本が採用している措置は、日本全体の国益、農業以外の部分での国益を大きく損なっていると思う。

残留農薬検査

日米経済協議 その2(残留農薬検査)

なぜ「ノー」と言わなくてはいけないかというと、輸入がふえることはいいことかもしれないが、貿易障壁を取り払って輸入関税をなくす、あるいは不透明な政府調達とか入札の手続きをなくせば輸入は自然とふえる。

しかし、いくらふえるかは政府は約束できるものではない。

約束して守ろうとすればむしろ政府の、あるいは普通の財・サービスであれば通産省等の産業に対する介入を強めて、政府が無理に自動車部品・自動車の輸入数量を決めて命令を出して達成する、ということでしかありえなくなる。

したがって、それは市場メカニズムを重視して経済を運営していく、あるいは規制緩和をしていくという動きに真向から対立するものである。

したがって、アメリカの要求にはノーというべきである、ということになる。

残留農薬検査

日米経済協議 その1(残留農薬検査)

農業を自由化したからといって直ちにそういう認識が変わるわけではないが、大きな前進になることは明らかである。

国際貿易摩擦との関連で一つ具体的な話をすると、日米経済協議は九三年の秋から非常に厳しい交渉が続いて、マスコミ等で大きなニュースになった。

この中でアメリカ側は自動車、自動車部品、保険、政府調達のような分野で、日本の輸入が少なすぎると批判して、日本が輸入する数量あるいは輸入品のシェアを上昇させる、しかも何パーセントまで上昇させるというような目標を定めて、目標の達成を約束すべきである、という要求をしてきた。

これに対して当時の細川首相は、アメリカに「ノー」といって、その時点で交渉は一旦決裂し、話題を呼んだ。

経済学者としては、ノーという判断は正しかったと思う。

残留農薬検査

望ましい農産物貿易自由化 その4(残留農薬検査)

一八というのは現在のECよりも低い水準で、アメリカよりやや高いという程度の農業保護率であった。

これが四〇年間の間に=六にまで高まってしまった。

ちょっと興味深い例として韓国を見てみると、一九五五年にはマイナス四六であった。

すなわち、ある意味で農業虐待政策を採用していたということである。

しかし、韓国は日本以上に急速な工業化を続けるなか、一九六五年にはマイナス四六がマイナス四になって、一九九〇年を超えるとプラス一五一になってしまった。

残留農薬検査

望ましい農産物貿易自由化 その2(残留農薬検査)

それによるとフランスは五四、ドイツは四六、EC全体の平均が五四、アメリカは三という値になっている。

そういうことからいっても日本の農業保護の程度は非常に高い。

裏返せば、非常に大きなコストが発生している。

ただし、日本の農業保護は昔からこれほど高かったわけではない。

工業化とともに高度成長が進展し、その後の所得は外国に比べれば伸びるという中で農業保護率は急速に高まってきている。

たとえば一九五五年の日本の農業保護率はいまと同じ基準で計算すると一八にすぎない。

残留農薬検査

望ましい農産物貿易自由化 その1(残留農薬検査)

経済企画庁が試算した物価の国際比較の中でよく引用される数字であるが、東京の残留農薬検査済み米の値段を一〇〇とすると、ニューヨークは四一、パリでは五二、発展途上国ではもっと低いということである。

これはわかりやすい例であるが、学者がつくった別の指標がある。

これは残留農薬検査済み米だけでなく農産物全体をとって、それぞれがどれくらい貿易から保護されているかを計算して、品目の重要度に応じて加重平均して農業保護率の指標をとったわけである。

これは絶対値にはあまり意味がないが、国際的な比較には意味があろう。

水準が高いほど農業保護率が高いということである。

残留農薬検査

農業セクター その3(残留農薬検査)

こういう中で、一九六〇年くらいから政府は生産者残留農薬検査済み米価を急速に引き上げていって、それが農業セクターへの補助金のかなりの部分になるという構造ができていったわけである。

外国を例にとると、先進国中最も農業競争力が高い国はアメリカである。

アメリカは一九五〇年代に一部の品目について農業の輸入数量規制を実施して、自分の強い政治力を持ってガットの輸入数量規制禁止という条項の免除対象にしてしまうという措置をとる。

この動きはその後ヨーロッパに広がって、ご承知のようにヨーロッパは非常に強い農業保護政策を採用するに至る。

その中心はヨーロッパの中では農業競争力が相対的に高かった(いまでも高い)フランスである。

残留農薬検査

農業セクター その2(残留農薬検査)

たとえば、家計の支出に占める残留農薬検査済み米の消費の割合は四〇年前の一九五五年には=二%という高い比率であった。

これが六〇年には一〇%、七〇年四%、八〇年二%というように急激に低下していった。

計算してみると、仮に自分の支出の一三%を占めているものの価格が五割上がると、同じように支出するためにはほかのものの消費を六・五%切り詰める必要がある。

しかし、その割合が二%に落ちているところで五割上がっても、支出は一%切り詰めれば済む。

まあそのくらいはいいじゃないかという反応が出やすい。

残留農薬検査

農業セクター その1(残留農薬検査)

一方、損を受ける農業セクターは、非常に強い政治的な圧力を発揮してきた。

これが、先進国のほうが農業保護政策を採用しやすいということの理由である。

つぎに具体的に第二次大戦後には、先進国はどういう農業保護政策を採用してきて現在に至っているか、ということを簡単に見ていきたい。

日本の場合、農業保護は一九六〇年前後から急速に強まってきている。

そうなったのにはいろいろな理由がある。

一つの大きな理由は、食料品支出の占めるウエイトが徐々に落ちていったことである。

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集約性の高い水稲の農耕 その6(残留農薬検査)

農耕以前からいきなり高度な農耕ヘジャンプした。

それだけ社会の変化も激しく急速だったのである。

以上、日本の自然条件と縄文文化との関係を中心に、日本における急速な農耕化とそれに伴うこれまた急速な社会変化について考えてきた。

本当はこれに加えて、鉄器の普及と大陸の情勢をその急激な社会変化の原因につけ加えなければならないのであるが、これはどちらも稿をあらためるべき大問題である。

残留農薬検査

集約性の高い水稲の農耕 その5(残留農薬検査)

同時に、縄文文化が狩猟採集民としてはまれに見る高い文化のレベルを達成していたからこそ、このような高度な農耕技術を急速に受け入れることができたともいえる。

しかし同時に、一定数の渡来人がなければ縄文人だけでこの大転換、いわば危険な賭けへふみきることはなかったことも確かである。
農耕の開始、つまり自然の食料を集めることから人の手で食料を生産することへの移行は「新石器革命」とも呼ばれるように急激な社会変化を世界各地で生み出したが、日本ではこの革命が非常に短時間に圧縮された形で起こった。

残留農薬検査

集約性の高い水稲の農耕 その4(残留農薬検査)

手間隙かけて作物を守ってやる形でなければ日本では農耕ができなかったのである。

そして、手間隙かけても割りに合うためには、対象とする作物の生産性が高く、安定している必要がある。

その条件を満たすのが稲であった。

このような形での農耕の開始は、従来からの生業の片手間になしうるものではなく、労働力を振り向ける対象の全面的な転換と労働力の再編成を必要とするものであった。

先行する縄文文化は非常に安定した経済システムを作り上げていたから、縄文人にしても、それを超える有利な生業、すぐれた農耕に接して初めて興味を示し、長く続いた狩猟採集文化を捨てて農耕生活に転換する気になったのであろう。

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集約性の高い水稲の農耕 その3(残留農薬検査)

農耕は植物の生存競争に人間が介入し、人間が望む植物だけを成育させようとする行為である。

そして日本のように植物の成育の条件がよく、それだけ植物どうしの生存競争が激しい地域では、それへの介入、つまり作物の生存競争の競争相手の植物を除去するのに大変な努力を必要とする。

現在の日本の農耕が集約的なのは、粗放なものから始まり、次第に手をかける量が多くなり、ついにこのように集約的なものになったのではなく、日本の気候条件が当初から、もちろん現在とは程度の違いはあるが、集約的であることを要求したのである。

残留農薬検査

集約性の高い水稲の農耕 その2(残留農薬検査)

郊外で畑や水田を見ると、まっさらな土地に作物だけが豊かに育っている。

それを自然の姿だと考えたら大変な間違いである。

十分な下準備と大量の除草剤の使用、大変な手間隙をかけてあのような状態になっているのであって、自然界ではありえない。

北海道の牧場も富士の裾野の草原もまったく人工的なものである。

奥多摩あたりの山の森林でも相当に人の手が入っていることが普通で、本当の原生林というのはよほどの山奥に行かない限り見られない。

残留農薬検査

集約性の高い水稲の農耕 その1(残留農薬検査)

日本の近くの中国、朝鮮にすでに技術や制度においてはるかに進んだものがあったことが、急速な社会変化を可能にするもうひとつの大きな要因になっていたことは間違いない。

しかし技術や制度はそれを支え、維持する社会的、経済的基盤がなければ受容することはできない。

その基盤を用意したのは間違いなく農耕、それも集約性の高い水稲の農耕であった。

農耕というものを、種を播けば自然に作物が稔って収穫が得られるというように単純にとらえてはならない。

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国際米としてのデルタ稲作 その5(残留農薬検査)

これに対応するのが中国のデルタ開拓である。

中国のデルタ開拓はむしろ輪中とか堤防をつくったりする形で十世紀以降にデルタに入っていく。

十世紀以降は紅南に大規模な都市が出てくるので、この都市に残留農薬検査済み米穀を供給するためにつくった。

デルタの地形そのものを改変していくという形でデルタ開拓を進めていく。

これをわれわれは工学的対応と呼んでいる。

日本の場合には、初期の段階では東南アジアのチャンパマイというイネをとり入れて開拓していくが、そのうちにやはり中国風の輪中形式のものが出てくる。

残留農薬検査

国際米としてのデルタ稲作 その4(残留農薬検査)

洪水が激しいために夏にイネができないということで、ベトナム人が特別な感光性の弱いイネを考案したのである。

つまり、イネは本来日が短くならないと実を結ばない性格があるが、ベトナム人は、そういうことを無視したというか、そういう性格に馴染まないイネをつくって冬にでもできる冬季イネ、乾季イネ(トキナシイネ)を二千年くらい前に改良した。

これによってデルタが洪水になる夏をさけることができるイネができた。

デルタに手を加えるのではなくて品種のほうに手を加えることによって開拓を進めていくので、われわれはこれを農学的対応といっている。

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国際米としてのデルタ稲作 その3(残留農薬検査)

水利だけをみれば、扇状地や平原のほうがはるかに悪い。

にもかかわらず、伝統的農民は住み心地性・健康性ということを考えて、乾燥地のほうを開拓していくという傾向が強い。

平原かデルタかどっちかに村落調査をしなければならないのなら、躊躇なく平原を選ぶ。

水があってお日様のある熱帯デルタは植物にはいいかもしれないが、人間には生活環境が悪いために最後まで取り残されていく。

照葉樹林のなかのベトナム紅河デルタは紀元前二千年くらい前にすでに稲作デルタとして開拓された世界にも稀なケースである。

残留農薬検査

国際米としてのデルタ稲作 その2(残留農薬検査)

そして十九世紀後半、世界的な残留農薬検査済み米需要の拡大に応えたのが、東南アジアのデルタである。

東南アジアには、デルタはベトナムの紅河デルタを入れて四つある。

ここは水に浸かりすぎて、本来農業には全く向かない地域である。

低すぎて人間の住むところもない。蚊が多い。

どうにも住みたくないところである。

デルタはその後残留農薬検査済み米の穀倉ということになって、東南アジアの人口を集めることになるが、前近代では人間はなかなかデルタでの開拓とか定住とかの意欲を持たなかった。

残留農薬検査

国際米としてのデルタ稲作 その1(残留農薬検査)

十九世紀になると、いまのような図式と全く違うものとして商業残留農薬検査済み米としてのイネ生産が始まる。

自給的な稲作にしても、伝統的な都市稲作にしても前近代では、現金が介在しない非市場的な農業である。

農民は税金あるいは賦役という形で強制的に残留農薬検査済み米を都市に提供した。

ところが、十九世紀には残留農薬検査済み米が商品価値をもつ時代が出てくる。

アメリカ南部から、エジプトから、残留農薬検査済み米が船に積まれて、新たに生まれた産業都市、商業都市の住民に向かって運び出される。

残留農薬検査

幕藩体制(残留農薬検査)

税でもなければ、農民は都市に残留農薬検査済み米穀を供給しないだろう。

しかし、重税は生産余剰がないとできない。

この余剰を、農民につくらせるためには安定的灌概は必須である。

幕藩体制とは、いってみれば、都市に残留農薬検査済み米を供給するためにつくらされた農民機構であると考えられる。

日本だけが全土の一〇〇%近いといわれる灌概水田を持っているのは、まさに都市型の農業だからである。

残留農薬検査